日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

         
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【25年11月19日】
11月7日は「立冬」と決まっているらしい。とはいえ、本当に冬の到来を感じたのは、昨日、今日の風、あるいは空気の冷たさによつものなのだろう。寒い、というより皮膚感覚的に冷気が沁みる、という感触。11月を「あたたかき」と詠った俳人中村 田男が、こんな天候を経験したら、どんな11月の句を読むだろうか、と思う。
などと書き込んでいたら、固定電話がかかる。受話器をとると自動音声で「あなたの郵便物の配布に問題が生じました。今後湯郵便物の配送に不備が……」などと語ってくる。最後まで聞く気にもならなかったので、続きが発語する前に電話を切った。「……」の後に、どんな言葉が続くのかは不明。念のため、ネットで検索してみると、似たようなサギ電話が頻発しているらしい。犯罪行為が、こんなに身近に起こっていることに、正直あきれる。こんなバカなことを仕掛けてくる連中は、さっさと熊に食われて死んじまえ!などと思う。
天候の話が、へんな方向に歪んでしまった。時代の歪みが、こんなふうに反映することもあるものだと思う。
【25年11月11日】
考えてみると、この世に熊が生きていても、人間にとってはほとんど何の意味も価値もない存在、ということなのか。動物園で、その生態を人間に見物させてある種の瞬間的慰安をあたえるとしても、それは特殊な環境の中において、かろうじて提供される非日常的な遊興の一つにすぎないので、人間の日常生活生活の中において、犬や猫のようにペットとして日常レベルに深くかかわり、人間に幸福な慰安をもたらすなどということは熊には金輪際なしえない不可能事であろう。いやいや、熊もまた毛皮やら肉やらをもたらしてくれるジビエとしての商品価値を持つ有用な生き物という面があるではないかとの考え方もあるだろうけれど、ただしそれらは死んだ熊がもたらすものであって、生きている限り獣としての熊には全く不可能な付加価値にすぎない。つまり、あらためて言うまでもなく生きた熊にはほぼ全く、人間にとっての有用性や価値などは存在しない、ということになるのだろう。ましてや、今のようにやたらに熊が人間を襲い(熊にはそのつもりはないのかもしれないけれど……)、時には殺害してしまうなどと言うことになってみると、熊は人間にとって大変危険な害獣以外の何物でもない、ということになる。人にとって無価値というだけでなく、最悪の害をもたらす悪魔的な生き物ということになる。その結果、人間のテリトリーに勝手に浸入し、人間に害悪をもたらし、挙句には人間の手によって殺処分になってしまうとしても、それは熊にとっても必然的ななりゆきということになるのだろう。その結果、多くの熊が、成獣、幼獣に関係なく殺戮処分の対象となり、罠に嵌められ、殺されてゆく。それもまあ、仕方のないことかもしれない。凶悪、狂暴な熊の牙や爪にかかって、傷つき、殺害される被害者としての人間が、確かに数多く存在するのだから。 ……、ただそんな人間の熊に対する行動を100%当然のこととして受け止めつつも、どこかに哀憐の情がくすぶっているのは、一体何なのだろうか。
そういえば、宮沢賢治の童話の中に、『なめとこやまの熊』というお話があったな、とふと格別の脈絡もなしに思い出した
【25年11月08日】
しばらく前に、あわや孤独死か、という出来事が近所で起こっていたらしい。ほとんど家籠り状態の私だが、警察車両や消防車まで来て、夕方近くまで周囲は落ち着かない状態だったらしいけれど、全く気が付かなかった。そのご近所さんとは、犬の散歩の途中で出会うと、おしゃべりしたりしていた顔見知りの人で、一人暮らしということも知っており、元気そうな人だったのでびっくりした。様子がおかしいという近所の人の通報で、わかったらしい。幸い、命には別条がなかったとのことでよかったと思う。そういえば、、数日前、かかりつけ医の病院の知り合いの看護師さんが、その家に注射をうちにやってきておられて、どうしたのかとは思っていたのだけれど。ご近所まわりには、一人暮らしの高齢者は少ないので、逆に気にかけておられるご近所さんがいたのは幸いだったと思う。ただ、けっして他人事ではないなと思ったのは、将来の自分自身のことを思ってみたからだ。
俳句大会の記念文集が、ようやく最終の校正段階までたどりついた。この文集を作成、配布して、やっと区切りとなる。長い9カ月だったなと思う。いくつもの事が重なったということもあって、この間自分のことがほとんど後回しになっていて、充実と思うなりにしんどいと感じる毎日だったけれど、これで一段落か。ただ、今の状況だと来年もまた、こんな状態で過ごすことになるかもしれないと思うと、かなり気が重いところもある。
【25年11月03日】
読書を再開する。公私にかかわるいくつかのことが、それなりに決着したり落ち着いてきたこともあるので、再開した。それほど、気持ちの余裕がなかったのだろうと思う。昨日は、『源氏物語』の続きの「手習」の巻、終盤に近付いたところで中断していたところから読み始める。今回は、途中の「若菜」の巻から読みだして、「手習」そして最後の「夢浮橋」で、一応『源氏物語』は一服して、別の作品を読んでいくことになるだろう。漢文は『古文真宝』の「後集」。こちらもあとしばらくで読み終わることになるだろう。昨日は、さらに金山桜子さんから送っていただいたままになっていた、第二句集『ひかりあふを』を中断部分から読み切る。繊細な句柄が心地よい。