日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【18年9月30日】

昼を過ぎて、風雨は目に見えて強まってきた。台風最接近は夕方らしいけれど、今でこの様子であれば、前回の21号の時のように、ちょっと雨風が……とはいかないかもしれない。台風が裾をかすめるという地理的関係の中ですら、こんな様子であるので、直撃を受けそうな近畿圏などはどうなることかと危惧の思いを持つ。本日予定していた京都での俳句の勉強会は中止となった。
風で転がりだすものは一応整理しておいたけれど、念のため裏に置いたごみ箱や灯油のポリタンなどにもレンガを重しに置いておく。屋根付きの洗濯干し場にはなっているものの、ここはかなり強い風が吹き抜けていく。
今夕遅くまでは、気が気でないような気分で過ごすことになるのだろう。

今日で9月も終わる。昨日は、本を返却しに市立図書館へ行ったが、美術館での書道展に来ているという知人からたまたま携帯が来て、広場をはさんで向かいにある美術館へと向かう。そこで、さらに別の知人とも出会って、その二人から臨時的なお仕事の話を依頼される。そこには当の仕事の依頼主の人(知人たちといろいろ繋がりのある人のようで、たまたま書道展でその三人が出会われたらしい)もおられて、少しお話を聞く。即答はできなくて、来週もう少し詳しい話を聞くこととなる。いろいろなことが今年はあるようだ……。

ある瞬間に、面白そうなことを思いついて、これは結構いけそうなことだ、何かに書き付けておこう、などと思いつつ、他のことにかまけているうちに、忘れてしまい、その瞬間に考えていたことがまるで思い出せない、というのもやはり老化現象のひとつなのだろうか。なんとか、思い出してみたいと思うのだけれど、今のところ無理みたいだ。ずいぶん面白くて、これは文章としてまとめるにしてもなかなかいけそうだぞ、という印象だけは残っているので、その分かなり悔しい。

「半分青い」終了。なんというのか、あっけないような終わり方。半年間、まじめにお付き合いしてきたつもりなのに、なんとも肩透かしをくらったような印象。この作者、とにかく最後は「言葉」に頼りすぎで、「言葉」だけでいろいろなことを解決しようとするところがあるようだ。友人の死も最後は秋風先生の手紙と母の言葉とで解決したような体裁で終わっている。鈴愛と律の関係も、二人の短いやりとりですべての決着を付けようとしているきらいがあったけれど、それにしては二人の言葉は様々な事柄をまとめて昇華するような深みに欠けたような気がする。ありきたりな言葉ではなく、もっと勝負をかけるような万感のこもった印象的な言葉のやりとりで終わってほしかった、などと身勝手ながらそう思う。
次の「満腹」は、関西を舞台にしたお話のようだけれど、ほんまもんの関西テイストが生かされないとつまらないお話で終わってしまいそうな気がする(とはいえ、こてこての関西モノでは関東の人にはかなり辛いお話になりそうでもあるけれど……。それにしても、主人公の女の子、藤山直美をうんと若くしてちょっと可愛くしたような印象をもってしまったが……。楽しみにしよう。)


【18年9月28日】

また、台風が来るのか。しかも、大きな被害を出した21号と同じような進路が予想されているらしい。いくら、秋は台風の襲来が多い時期とはいえ、もうけっこうという気分である。
沖縄は、明日はおそらく暴風雨になることだろう。事実上、知事選の選挙活動は今日が最終日で、そのまま1日置いて、日曜の投票日へということになるのだろうか。沖縄の歴史の一転換点となり得るか、否か。
しばらく休んでいた連句の歌仙をそろそろ始めようと、その準備にかかる。10月に入ったら、始めることとしよう。連句をすると、俳句が駄目になるという話は今はどうなっているのか、よくわからないけれど、連句を始めるとその面白さはなかなかのものである。そもそも、俳聖といわれた松尾芭蕉もその本領は連句にあった、と本人自身が自任しているくらいなのだから……。
図書の返却日が明日で、本日は読書の時間を湊かなえの『ユートピア』読了にあてる。相変わらずのストーリーテラーぶりが発揮された一冊ではある。ひとつの町を舞台にしたミステリー仕立てのお話。人の悪意のちょっと鬱陶しく思われるほどの追求と、その中にふっと挿入される善意や救いの絶妙なバランスが、今回もそれなりに生かされてあったような気がする。ずっと湊かなえの小説を読み続けてきて、少々こちらも読者として「悪ズレ」しつつあるか、などとも思う。
丹後で一緒に句会に参加してきた方が、第二句集を出されたという連絡をいただいた。俳句に対する熱意と真摯な姿勢は、ちょっと圧倒されるようなところがあったのだが、今回どのような句集に仕上がっているのか、送っていただくのが楽しみである。岩城先生が序文、作者の旦那様が跋文を担当された、とのこと。
「改正派遣法」が成立して、3年。おおかたの予想通り、「派遣切り」が横行しているらしい。これでは、あらたに「派遣切り」に対する罰則を含む法律の制定が必要になりそうだ。そもそもの法律が笊のうえに、しかも厳正に運用されないという状態では、いつまでたっても、この状況は改善されないだろうな、と素人でも思う。
明日で、とうとう「半分青い」も最終回。一体、どんな終わり方をするのだろう。気になる。さらに今後、スピンオフの形で、消化不良感の強いお話が、こなされていくことになるのだろうか、さて……。
スマホに変えて以来、通信やスケジュール管理などがずいぶんやりやすくなったけれど、なんとなくいつもどこかスマホに意識の一部が向き続けているような、そんな感触を感じつつもある。便利というのは、いろいろとややこしい。



【18年9月27日】

日の出前に歩く。東風が強く、しかも寒い。しばらく前はあんなに暑かったのに、季節の進み行きの早さを強く感じる。そういえば、朝日の昇ってくる方向も、東方向からずいぶん大山寄りに移っていることに気づく。西の空には、しらじらと丸い月が残っている。
身内の状態も安定し、数日後には転院も決まった。昨日まで、九州の兄も来ていたのだが、昨夜の高速バスで帰宅した。
同じ頃、できものの手術を受けた犬の方も、かなり以前の状態にまで回復したようで、食事の催促でわんわん吠えるのがうるさいくらいだ。
少しずつ、平常に復しつつあるようだ。

ここしばらく知り合いの人たちの入院や検査や手術やらと、そんな話題が多かった。年齢相応の状態なのかもしれないけれど、いろいろと気がかりなことが多い。とはいえ、進行や結果がさほど深刻なものでないことが救いではある。

「半分青い」も今週が最終週。にもかかわらず、いろいろな出来事のてんこ盛り状態で、果たしてどのような結末を迎えることになるのか、気が気ではない。気が気ではない、的な雰囲気で最後まで引っ張る戦略なのかもしれないけれど、またひとり重要な登場人物が東日本震災でなくなるという重い話題をこんな時期に盛り込むのもどうかな、とは思う。それにしても、登場人物が誰一人なくならないで終わるという朝のテレビ小説がひとつくらいないものか、とも思う。長い期間を扱うから、その過程でだれか亡くなるということはやむを得ない(登場人物の入れ替えに利用されたりはしていないだろうな、とは思うけれど。そういえば、唐突にアメリカ行きが決まって、日本を去った登場人物なんていう人もかつて別ドラマであったが……)のかもしれないけれど、しかし視聴者の誰一人として登場人物の死を見たいなんて人はいないのではないか、とは思うのだが。



【18年9月21日】

「第九」の公演が11月に控え、実行委員会の一員として、少々落ち着かないような気分になりつつある。10月早々には地元の支援団体の方たちとの、いわば「総決起集会」的な飲み会も控えていて、そのような社会の生な動きに対してなかなかスムースには対応できない我が身としては、余計な緊張ばかりが高まってくるような思いになる。今日は、団体の「趣意書」の原案のようなものを書きながら、改めて地域における文化的な活動というものについて考えさせられるところがあった。
単に楽しい、というだけでは終わらない部分を背負ったようなところがある。
運営する側の気苦労というものを、いまさらに思わされている。
先日の地元句会の最後に、近日開催される地元句会の結成〇〇年記念の集まりで、皆で歌われる記念歌の練習をすることになった。その歌が、「第九」の有名な歌曲の一部分で、日本語の歌詞がついていたけれど、「第九」は今まさに歌いこんでいる歌曲で、結構調子に乗って声張り上げて歌ったら、思いのほか周りから受けて、良い気分だった。ここ数回前から、句会の披講役に突然指名されて、困ったなと思ってはいたのだが、歌を歌うことで自分の声を褒められて、ちょっとありがたいような思いになったものだ。
なんとも単純な話ではある。
安倍三選が決まり、いわゆる御用評論家たちはここぞとばかりに安倍を持ち上げ、石破を貶めて、点数を稼ぎ、今後3年間の生活基盤の安定化を図っているような雰囲気が濃厚である。逆に、安倍と寿司友である、○○氏などは、ちょっと辛口批評を展開していたりするようだ。ある種の経験値の高さと余裕とがもたらすものであろうか……。いずれにしろ、安倍は3年以内に総理の座を離れるので、次の席に座るものに対する計算と配慮がそれぞれの論調の高低に影響をもたらしているような気配を感じる。
北朝鮮による邦人拉致問題は、その骨の髄までしゃぶりつくすように、安倍政権の手でつくづく政治的に利用されてきたと思うのだけれど、それがついに少し狂騒的な雰囲気を帯び始めたような気がする。もう、残された時間は少ないという強い危機感が、6年間もなんら外交的手腕を発揮することなく、危機感を煽り、北朝鮮との関係を緊張状態へと意図的に仕向けてきた安倍政権に向かうことなく、桜井なんとかの挑発などに煽られて、石破や野党を政府の意向に反するもの、拉致問題解決の阻害要因として「日本の敵」とまでよばわるような状態に押し詰めてきた、そんな状況が恐ろしい。
「非国民」として、外部ではなく、集団内部に仮想敵を設定することで、ある種の問題すり替えとガス抜きとを同時に意図する、そんなやり方をふと思う。でも、石破や野党をいくら攻めたて非難しても、拉致問題はまるで解決しないことは明らかだ。アメリカに支援を依頼する形をとって、自らに向かうはずの責任論を回避するような姑息な政治的手法でも、もちろん拉致問題は解決しないだろう。関係ない国々を行脚しつつ、「外交の安倍」などと自らを誇るのであれば、いまこそ北朝鮮と正面から向き合うべき時なのだろうと思われる。なんの、かんのと理屈をつけてそれを回避しようとするだろうけれど。「心からの怒りを胸に」、北朝鮮と拉致問題で対峙すべきなのだろう。日本国の総理大臣として、安倍晋三にはその責任と義務とがあるだろう。


【18年9月21日】

ちょうど同じ時に、実家の犬も、体の腫物が大きくなって出血までする状態となり、一時的に行きつけの動物病院に入院し、全身麻酔による手術を受けた。入院は2日で、すぐに退院して帰ってきたけれど、今年に入って2度目の全身麻酔による手術ということもあってか、当人も相当疲れたらしく、帰宅してもぐったりした状態となってしまった。ただ、食欲だけはしっかり保持しているので、食べることができればなんとか回復するのではないか、と楽観的な思いでいる。飼い主と飼い犬との偶然的な入院という出来事だった。

本日も天候不順で、日中も20度を切ったのではないかと思うけれど、夕方になってとうとう雨が降り出し、本格的な状態となった。明日は病院と句会とその後の会議とで一日が終わってしまうことになるだろう。ここ三日ほど、まるで本を読む時間がなくて、忙しいなりに少々物足りなくもある。図書館で借りてきた数冊の本もほとんど手付かず状態で放っている。湊かなえの小説などもあるので、早く読んでみたいとは思うのだけれど……。

自民党総裁選、安倍の三選はどうでもよい(あと3年間、あの顔を各所で見なければならないのは少々げんなりするけれど、3年たてば消える)が、石破の善戦は大いに良しとしたい。特に、党員票の半分近くが石破支持を表明したということで、国会議員と自民党員との支持率の乖離は、いかに自民党の国会議員が民意から離れ、烏合の衆と化しているのか、ということの一端が明確に表れたものと思われる。数名の隠れ石破(それが数名であったこともまた、烏合の衆化現象の一端ではあったか)に対する強迫などが今後生じることがあれば、時代錯誤の魔女狩りみたいなもので、ますます民意は離れていくことになろう。それが、自民党内部においての現状であってみれば、直接は選挙権を持たない多くの一般国民の今回の総裁選の受け止め方はどうだったのか。今後、各マスコミによる世論調査が行われることだろうけれど、その結果に注目したい。


【18年9月18日】

マリー・アントワネットは、「パンがなければ、ケーキを食べればよい」と無邪気に語って、断頭台の露と消えた。安倍晋三は、「ゴルフがだめなら将棋はよいのか。」と、加計との親密交際に対する批判を、お得意の論点ずらしでかわそうとして、完全にスベってしまった。見ているこちらまで、ちょっと恥じらう思いになった。茶番の一幕であった。

身内の入院の付き添い。これからしばらくは、毎日病院通いが続くことになる。最上階の病室から、下の方を見下ろすと、眼下にドクターヘリのヘリポートが見え、ヘリコプターと整備士の姿が眺められた。入院した当人も一緒に、しばらく窓の外の景色を眺める。公園やヨットハーバー、小島を浮かべる中海の佳景が遠く見渡せる。

『狭衣物語』。姫君の妊娠を、衣服の隙からのぞく乳房の乳首の色で看取ってしまう乳母の姿などは、なんとも生々しい。主人公の元に降嫁するはずの姫君の妊娠を知られぬために、その母親が身代わりに自ら妊娠した(母がすでに四十を過ぎていて、その年齢での懐妊・出産は珍しい、などと高齢出産的な話題が取りざたされたりとか)と偽り、姫の出産後、自分の子供として赤子を引き取るという話の成り行き。しかも、その母は娘の懐妊・出産に対する強い心痛から、その後まもなく死亡してしまうという結末。さらに、実は姫の妊娠の相手は、やがて姫君が降嫁するはずの当の主人公狭衣の君の好奇心に発した一夜の「色好み」の振る舞いの結果であったという。なんとも、すごいストーリー展開。当時の人たちは、わくわくどきどきしながら、この物語を楽しんでいたのだろうか。

波郷関係の文章、六千字ほどの分量となる。1回二千字の約束だったので、なんとも好都合であった。ただ、これを内容的に3回に分割するのが、なかなか難しそうだ。さて、どうしたものか……。


【18年9月17日】

安室奈美恵さんが、引退。特にファンでもなんでもないので、テレビで過熱気味に放送される様子を垣間見ても、すごいなという程度の感想を持つばかりだ。ただ、引退後どのような生活を送られることになるのかという点については、関心はある。あるいは、海外に居を移してしばらく日本から離れるという生活をされるのだろうか、などと思ってみたりもするけれど、それ以上にご自身の故郷でもある沖縄とどのように関係を保ちつつ生活してゆかれるのだろうか、という点が興味深い。
樹木希林さんの死亡は、さすがに驚きを感じた。乳癌の転移により5年前から全身を癌に侵された状態のまま、闘病生活というより癌との共存生活を続けながら、俳優生活を送っておられるということは仄聞していたし、なんとなくこのままずっと生き続けていかれるのではないかという、根拠なしの思いなどをこころのどこかに抱いていたものだから、訃報を聞いて、ああやはり亡くなるんだ、とつい思ってしまったことだ。どこか常人離れをした、しかしいかにも人間臭い方であったように思う。
大阪なおみというテニスプレイヤーが全米オープンで日本人初の優勝を果たしたということで、大注目を浴びているらしい。いつだったか、たまたま見たスポーツ番組の中で、試合が思い通りにいかず不貞腐れた様子で、男性コーチに対して邪険な態度をとっている姿を見て、嫌だなという印象を持ったのが現在まで影響しているらしく、優勝優勝と大変盛り上がっているらしい様子を見ても、へーそうなんだ程度の反応しか持ちえない。
ここ数日、テレビをつけると、日本にはこの3人しか話題になる人はいないかのような濃密な報道がなされていて、こんな風にスポーツと芸能の話題だけ流しておけば、日本はそれなりにドラマチックで平和なんだ、などと感心してしまうことだった。

なんとも、変な話題になってしまった。


【18年9月14日】

ようやく暑さから解放されたと思ったら、こんどは天気がいまひとつである。秋霖前線による秋の長雨ということなので、これも季節の移り変わりの一段階だと思うけれど、終日雨というのは少々残念な気分になる。
加藤郁也の『近世滑稽俳句大全』をようやく夏の部まで読了。芭蕉や蕪村、一茶の句から初めていわゆる月並みと呼ばれた俳諧まで、膨大な数を網羅した近世俳諧集の一冊。正岡子規の『俳句分類』12万句には及ばないながら、近世の俳句を1万数千句網羅した書物である。手元に置きたい一冊ではあるが、おそらくかなり高価な本(アマゾンで調べたら、古本で16000円ほどらしい)なのであろう。手元にはなぜか、同じく加藤郁也の『江戸俳諧歳時記』があるので(いつ買ったのだろう。まだ現役の頃、かなり安く手に入れたのだろうと思うが)、そちらの方で当面我慢しつつ、明日が図書の返却日なので、うまくいけば貸し出し継続という形で、残りを読み切ってしまいたいものだ。

月並み俳句として、正岡子規は一刀両断のもとに近世の俳諧を切り捨てたけれど(とはいいながらも、「俳句分類」を読んでみると、きっと子規自身が大いに近世の俳諧を楽しんだ部分があるような気もするけれど……。収集と分類に無上の喜びを感じる「俳諧マニア」的なところもあるようだけれど……。)、読んでみるとずいぶんと面白い。江戸時代の庶民たち(といっても、職業として俳諧に携わる人たちとか、教養もあり、経済的にも豊かで、それなりの生活レベルを保つひとたちが大半なのだろうけれど)の滑稽・諧謔・機知そして粋などが網羅されているようで、読んでいて楽しかった。

本日は、『俳諧大全』を読むことと、波郷関係の文章を書くことで、一日が終わった。波郷関係は、最初は1回分程度でおさまるかと思っていたけれど、思いのほか内容が展開して、結局約束の残り3回分が全部ひとつの話題で終わってしまいそうだ。それはそれで、こちらにとってはうれしい誤算的な部分もあるけれど。好きなように書かせていただき、相当の独断と偏見と勘違いが含まれているのかもしれないけれど、少しは違った切り口で、内容が展開できたかもしれないとは思う。
それにしても、書くことはなかなか楽しい、と改めて思う。


【18年9月11日】

「ふるさと納税」に対する総務省の締め付けがきつくなったみたいだ。そもそも、「ふるさと納税」は、東京を筆頭とする大都市に集中する税金を地方に回そうという趣旨で始まったように個人的には理解していたのだが、寄付金が税控除の対象となるとともに、その土地土地の様々な返礼品が贈られるということで、その制度を利用する人たちがずいぶん増えたらしい。返礼品もかなり高価なものがもらえるということで、知人の中にも進んで「ふるさとの納税」に協力する人たちもいる。ただ、その結果として、地方が潤うと同時に、地方同士の寄付金の奪い合いが、返礼品の差異化と高級化という形をとりつつ過熱化したことと、逆に大都市に納められる税金が大きく減少して、行政施策上困難が生じ始めているところがあるらしいとも聞いた。とはいえ、大都市は地方からの人口流入を背景にして、莫大な税収を得て、その結果地方などとは比べ物にならないほどの潤沢な行政サービスの恩恵に浴していることは、厳然たる事実だろう。
総務省は、返礼は寄付金の3割以下、返礼品はその地域の「地場産品」に限定し、今回それに反する自治体については、寄付金の税控除対象を除外するという方向を打ち出そうとしているらしい。ただ、その制限はいったい誰のためのものなのか、ということがちょうと気にはなることだ。下世話な話になるのかもしれないが、「ふるさと納税」を利用しようとする人たちは、もちろん郷土愛に基づいてというひともいるだろうし、地方の物産をかなり割安に手に入れることができ、さらに税金対策にもなるという一石二鳥の恩恵にあずかろうとするひともいるだろう。そしてそれは、別に非難される筋合いのことでもない。当該の自治体にしても、寄付金を集めるということで、さまざまに工夫を凝らし、また寄付金とそれに充てられる費用との釣り合いを考えつつ、各地方それぞれの事情と独自性を勘案しつつ活発に運営を図る。結果として、税収アップにつながることだから、行政としてはやりがいのある取り組みになるように思われる。それって、地方を活性化し、地方の活力と自立性を担保し、促す効果的な施策なのではないのかと、ごく単純に思ってしまう。そもそも、今のままであっても「ふるさとの納税」を利用する側にも、利用される側にも特に何の不利益はないのではないのか。

ただ一点、不利益を被るとしたら、それは「ふるさと納税」によって、本来自らのところに入るはずの税金が地方に流出して困る大都市、ということになる。今回、総務省が「過熱化」した「ふるさと納税」に歯止めをかけたいのは、そんな大都市の側の台所事情のためなのでは、などと単純な損得勘定の上からはつい思ってしまう。
各自治体も馬鹿ではないから、集まった寄付金以上の返礼品を提供するはずはないし(進んで損をするような自治体はただひとつもあるまい)、これといって目に立つ「地場産品」のないところだってあるだろうし、ないからこの制度に参加できないなどという話は得心できない。なければ、周辺から魅力的なものを引っ張ってきてもよいではないか、と個人的には思ってしまう。逆に、妙な枠は取り払ってしまう方がよいようにも思う。
総務省、ほっとけよ。地方にまかせろよ。よけいな口出しをするなよ、と個人的には思う。中央の余計な口出しが、地方を萎ませることにもつながりはしないか、などと……。

昨日、今日、そして明日と3日連続で、母の通院の運転手。特に重大な何かがあったわけではない。昨日は、お話を聞きに行き、今日はその話を受けて、以後の検査の予約を取るために出向き、明日は予約したその検査を受けるということで、連続3日通院ということになる。それどれ半日ほど時間を使うけれど、その時間の大半は待合室での「待ち」である。患者にとっても、医師にとっても、看護従事者の方にとってもなかなかシンドイことだな、と思う。「三方一両損」という言葉があるけれど、本来の意味は三者が公平に平等にリスクを取るみたいな意味なのだろうけれど、そういうことなのだなと改めて思う。


【18年9月8日】

北海道の地震の被害のひとつに大規模な電源喪失による停電問題があった。北海道の地域的事情もあって今回のような全道の停電という事態が生じたようだけれど、本日の某新聞に「太陽光発電」の自立運転モードにより、太陽光発電を設置している各家庭ごとに、日中の時間帯で限られたワット数とはいえ、太陽光発電の電気を自宅の電源としてフル活用できる運転モードが用意されているということを知って、そうなのかと得心した。上限1500Wまでで専用のコンセントを利用する必要がありらしいけれど、自立して使える電源が自宅にあるとしたらずいぶん心強いことだろうと思った。
我が家には、残念ながら太陽光発電システムはない。自宅の構造上、新たに太陽光パネルを屋根の上に設置できそうにないので、引っ越した時点で、その設置はあきらめていた。自宅はオール電化という仕様になっていたので、かなり残念な思いもあったのだが、設置費用と売電等による費用回収の割合が結局不経済というような話も「近所の電気屋さん」から聞いていたりして、各家庭による太陽光発電についても、あまりその意義を考えてもいなかったのだが、今回の事態を見聞して、ちょっとだけ考えが変わったように思う。もちろん、長期間に渡る代替電源としては限界があるのだろうけれど、短期間であれば太陽光発電の新しい活用法として意味があるのだろうなと思った。
蓄電ということが各家庭でできればさらによいのだろうけれど、現在はその家庭用の蓄電施設が100万円以上の高額費用がかかるらしくて、なかなか実用向きではないらしい。電気自動車を蓄電器として活用するなんてこともできるらしいと聞いたことがあるけれど、それもおのずと限界があることなのだろう……。

土曜日。某俳句結社の結社誌に連載させていただいている石田波郷関係の文章の第5回目を書き始める。すでに4回までは原稿を渡ししていて、それが掲載を始めているので、そろそろ次を書き始めなければ間に合わなくなるかもしれない。切迫した状態ではないのだが、残り3回分をだいたいどんな内容にするか考えておく必要はあると思った。とりあえず5回目は、「胸形変」という、波郷の句襲名にもなった俳句を中心に考えてみようかと思う。1回で終わるか、話題が展開すれば2回分くらいにはなりそうな感じがする。とはいえ、書いてみないことにはわからないというところがあるので、その点は少々我ながら困る。

午前中、ちょっと文章を書いた以外は、ほぼ夕方まで久保寺健彦の『青少年のための小説入門』という小説を読む。二人の青年が、漫画家でいえば藤子不二雄みたいに協力してプロの小説家を目指す(一人が原案・原作の提供者、一人が執筆者という役割分担で)という内容で、奇想天外な部分もあるけれどなかなか面白い。実際に、芥川龍之介をはじめとして筒井康隆の作品などまでが引き合いに出されて、二人が作品の研究などをするあたりはちょっとタイトル通り小説入門的な部分があったりもする。面白くない小説研究の段では、つまらない小説について「タイトルは割愛する」などという小ネタの一節などもあって、楽しませてもくれる。


【18年9月3日】

終日快晴。その上に、蒸し暑い。明日は、日中は台風の影響を受けることになるだろうから、家に籠るということになるか。しかし、車が動けるような状況なら、午前中に母の通院の送迎を行う必要がある。時間的に、台風の影響がさほどではない時期に通行ができれば大変ありがたいけれど。

午前中は読書。『狭衣物語』は巻二に入る。『寝覚の床』に比べて、物語としてこちらの方がずいぶんと面白い。主人公狭衣とその相手源氏の君は、いかにも類型的人物ではあるが、これは理想化された人物であるため、やむを得ないことなのだろう。物語としての面白さは、それ以外の人物たちのかなり生身の人間的な言動や振る舞いの部分だ。『寝覚め』以上に『狭衣』の一般登場人物たちは面白い。『韓非子』は、上巻を読み終えて、下巻へと入る。相変わらずの帝王学的内容ではあるけれど、歴史に材を取っての教訓的内容の部分はなかなか面白い。
午後からは、実家の買い物に出かけたり、帰宅後はコンクールの俳句部門総評を半分、成人部門の分を夕方までかけて書く。ちょっと講評的内容から離れる部分があったりして、ちょっと書き迷ったりもする。しかし、自然な流れとしてそのような展開になってしまったので、そのままにしておこうと判断する。最後のまとめの部分で、なんとか整合性をつける。意味のある内容にはなったと思うのだけれど……。

安倍晋三の言動を見ていると、あの人はもう憲法改正以外はおそらくどうでも良くなっていることだろうな、と思えてくる。アベノミクスにともなう諸問題などは、自分ではなく次の政権に丸投げするつもりでいるだろうことも透けて見える。せめて、拉致問題だけでも解決すれば、ひとつぐらいはまともなことをやったという評価にもなるかもしれないけれど、さんざん北朝鮮を追い詰めるような言動を繰り返し、まともな外交的手腕を発揮することもなく無意味に6年近くを過ごしてきたのであれば、この先の見通しはなかなか暗いものではないか、と思われる。
それにしても、憲法改正に関して、自衛隊に対してまで改正をアピールする総理ではあるけれど、法律論から言えば、素人が見ていても公明党に配慮した加憲案よりも、石破の提案する第2項の削除・改定の方が筋の通った提案であることは明らかだろう(個人的には、9条は変える必要は全くないと思うけれど)。法律家が自衛隊の存在を違憲と判断するから、自衛隊の存在を憲法の中に位置づけ、違憲論を解消するのだというようなことがあるらしいが、加憲案は「軍事力」の定義の部分で、根本的に自衛隊の持つ武力(自衛力とでもいうのか)との間で、矛盾齟齬をきたすことは明らかだろう。なんとかそれをいいくるめようとしても、「白馬は馬でばない」的な詭弁やごまかしで押し通すぐらいのことしかできないのではないのか、などと危惧する。法学者についていえば、今のところは憲法の規定に照らし合わせて自衛隊は違憲という判断がなされているようだけれど、安倍加憲法案であれば、今度は一番元となる憲法自体に疑義が生じるという最悪に近い状態がもたらされる恐れがあるようだ。法律学者たちは、自衛隊の存在ではなく、憲法それ自体に異議をとなえることになるのではないのか、などと思ってしまう。


【18年9月2日】

今日は、終日30度を切る温度で、早朝の「歩き」は涼しくて気分が良かった。海岸まで足を延ばす。これで片道2キロ強くらいの距離になるのだろう。

関東方面の某施設の文芸コンクール俳句部門の選者を務めさせていただいている。ここ数日で予選を終え、その後の選評書きにとりかかかっていたのだが、本日一日をかけて選評の残りを一気に書き終わる。ひとつひとつの作に関する講評の字数自体はさほど多くはない上に、少年の部・成人の部いずれも面白い作品が多くて、その点でも講評の筆は進んだ。
明日以降は、両部門の総評を書くことになるのだが、こちらは分量も多いので、ゆっくりじっくり書くことになるだろう。9月半ばが、選考結果原稿の提出締め切りなので、時間的には十分余裕がある。

NHKのEテレで、午後から夕方にかけて「聲の形」という劇場公開の長編アニメをやっていた。京都アニメーションの制作で、アニメ業界で高く評価される京都アニメーションだけに、視覚的にもすばらしいものだったが、描かれたテーマもまた、ずいぶん考えさせられる内容だった。最初の方は見ることができなかったのだが、2時間超の長尺アニメだっただろうか。イジメとそこからの回復の問題に、ろうあ者の問題を重ねて描きだされてあったけれど、アニメらしい手法を駆使しつつ、見ごたえのある素晴らしい作品となっていた。ちょうど、選評を書き終えて、そのテンションの高さの中で見たせいか、ひどく感動したことだ。見てよかったと思う。

9月に入った。台風21号が明後日には中国地方から近畿・東海のいずれかの地点に上陸しそうだ。かなり強い勢力を保ったままでやってきそうで、なんとも気物性な来訪者ではある。風も気になるが、降雨もずいぶんと気がかりではある。