日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【18年8月31日】

夜に入って、久しぶりの土砂降りがあった。約1時間ほど、吹き降りと雷の競演という状態だった。ネットで確認すると、赤色の雨の帯が、ゆっくりと上空を移動している様が明らかだった。今では、もうすっかり雨は上がっている。土地はもともと砂地なので、降った雨も溜まることはない。夕方の庭の水やりが無駄になってしまったが、こんなこともたまにはあって良いことだ。庭木の一部が暑さのため弱ってきていたので、今夜の雨は慈雨ということになりそうだ。この雨で季節がさらに一歩進むことを期待したいが、明日もまた暑くはなりそうだ。

地元市の文化団体の交流会(活動宣伝+宴会)に「第九合唱団」の一員として参加してきた。思った以上の参加団体数と人数で、地元にこんなに文化活動に携わる団体があったのかとちょっと驚き、同時に少し心強いような思いにもなった。参加者も各年齢層様々まで、若い世代の人たちの姿もあって、その点でも心強いものがあった。文化力の衰えは、明らかに地域の活力の衰えの反映でもあり、その点で小さな地方都市ではあるけれど、様々な文化とその取り組みが日々なされていることがうれしかった。ついでに、会に参加して今までこちらの視野に入っていなかった俳句結社とその会員さんと知り合えたのは思いがけない余禄ではあった。とはいえ、実は同じ合唱団のメンバーの方ではあったのだが、今まで一度も俳句関係の話などしたことがなかったので、知りようがなかったのだ。話の延長線で、9月に入って今までの地元句会とは別に新たに句会に参加できそうな具合にもなってきた。ありがたいことである。

中学や高校の同級生だった書家や写真家の方は今回参加しておられなかったようで、少々残念ではあるけれど、こんな形で地元の文化団体と共有できる場を持てたことはとてもうれしいことだった。

ボクシングやラグビーに続き、今度は体操か、と思ってしまう。「膿を出し切りたい」などとどこかで聞いたフレーズも飛び出す今回の騒動だけれど、どこまでことの真相が明らかとなり、膿が出されることになるのか、なかなかおぼつかないことだろうと個人的には思う。問題の本質は、いずれも共通しているものなのだろう。日本的風土や体質が、「世界標準」と考えられているものからずいぶん乖離していることを、政治の世界だけではなく、スポーツの世界においても見せつけられているような思いになる。さらに夜の保守的志向の強い某番組においても、経済において従来型の思考や発想を脱却して果敢に挑戦をしなければ日本経済の先行きは危ういなどと提言がなされていたりして、経済の世界においても従来型の日本的体質と思考に対する危惧の思いが強まっていることを改めて知らされたりもした。様々な分野で過去への退行的発想(その点で、「高度経済成長」の再来、夢よもう一度的な現在の経済政策などは完全に世界の動きからも取り残されているものということになりそうだけれど)ではなく、本当の意味での未来志向というものが求められつつあるようだ。


【18年8月28日】

夢は無意識からの助言とか警告、ということは聞き知ってはいたけれど、今朝の夢はあまりに異様なもので、目を覚ましてから念のためネットで「夢占い」を検索する。その結果は明らかな凶夢で、現在の自分の状態がこんなふうな形象として夢に描きだされたことがひどくショックだった。ただ、自分自身薄々そのような精神状態については気にかかる部分がすでにあって、寝床に横になったまま、夢のもたらした警告の意味について、自分自身の近況を振り返りつつ、真剣に考え詰めた。夢の内容はとうていここに描くことはできない。ただ、例えばたまに見る巨大な竜巻を現前するなどという夢が、自身の大きな変容の予兆であるなどという内容であるならば、その変容がどのような内実をともなうものかわからぬなりに、受けとめることは可能だったろう。夢の中の巨大な竜巻、たとえそれが二つも三つも差し迫ってくるとしても、だ。しかし、今朝の夢はそのような異様な激しいものとはまるで違う性格のものだった。そして、目を覚ました瞬間、今まで見たこともないその異質な形象が、正直恐ろしかった。
「夢占い」の内容を参考にしながら、その夢が自分に語るものの意味を自分なりに考え詰めた。そしてある意味、自分がきわどい地点に立っていることが、自分なりにやがて了解できるような気がした。これは本当に無意識からの自分に対する警告である、ということを痛切に感じもした。そして十分注意深く、さらにこの状態に拘束されることなく前に進まなければ、ひどくまずい状態に自分は墜ち込みかねない。そして仮にそんな状態にはまりこんでしまったら、ずいぶん苦しむことになるだろうということまでは予想できた。
そこまでいって、ようやく気持ちが落ち着いてきた。朝方の夢は不吉だというようなことを聞いたことがあったような気もするけれど、その夢に対する自分なりの解釈というものが、思い当たるという形をとってまとまり始めたということなのかもしれなかった。目を覚ましたのが4時過ぎで、気が付くと考え始めてからすでに時間は6時前になっていた。ずいぶん、集中して、あるいは緊張して考えたものだと思った。起床した。
こんな、朝の始まりは本当に難儀なものだ。

普通に本を読む気にならず、し残しておいたもの、あるいはこれからしなければならないことの準備作業に、今日一日を費やすことにした。なにがなし、動いている方が良かった。やがて、今朝の夢が、ここしばらくの自分自身の良いこと、よくない事をことをひっくるめてそれらの全体の中からもたらされた無意識からの警告のように思われ始めた。良いことも多かった分(例えば、昨日の京都での句会は、とても感銘深いものとなった。本当に深く心を揺さぶられる一句と出会うことができた。)、それゆえに光が影を逆に際立たせるように、自分の中に深くわだかまっていた影の部分があのような夢の形をとって現れたのかもしれないとも思われた。
そういえば、昨日の句会で私の出した句のひとつ。「鰯雲サル目ヒト科ひとでなし」などという無茶な句も、わだかまりの反映の一部だったのかもしれない……。


【18年8月21日】

東京五輪を口実に「テロ等準備罪」は強行された。今度は、ほとんど森氏の思い付きのような形で「夏時間」への移行が、オリンピックを口実に検討されようとしている。オリンピックのためにといったけれど、夏時間に関しては、すでに1度実施され多くの問題点から国会の全会一致で廃止された経過もあるらしく、しかしその後も復活が画策されてはきたけれど、様々な懸念材料から現在に至るまで実現しなかった制度のようだ。いろいろメリットも喧伝されているようだけれど、個人的には健康面への懸念という一点からだけでも夏時間には反対だ。ギャンブル依存症が増えることを繰り込んだうえでの「カジノ法案」を成立させた国だから、国民の心身の健康よりは、経済的利益の方が重んじられるお国柄だけに、この夏時間への移行も、健康面以外にもいろいろな点から懸念が表明されているにもかかわらず、実施するという結論にいたるのかもしれない。ちなみに、この夏時間への移行も、オリンピック云々という以上に、労働時間延長という労務政策の一環としておそらく考えられているだろうことは容易に想像がつくことだ。
そもそもどれほどの期間を夏時間に変更するのかはわからないけれど、人間の体内時計がその条件の変化に適応するまでには1か月以上もかかるらしい。そしてようやく、夏時間に慣れたら今度は、通常の時間に再度変更され、それになれるまでにまた1か月以上の時間がかかる。その間、体内時計の変調による睡眠困難や体調不良、学習や労働の条件や環境の変化に苦しむ人たちが現れるだろうことは想像に難くない。さらには1日の労働時間も、まだ明るい時間帯に退勤して、以後の時間を個人や家族との時間にあてるという人たちは、ごく一部の意識高い系人間と、大企業など条件的にそれが実行可能な人たちだけに限定されるだろうことは、政府の肝いりで始まった「プレミアム・フライデイ」が結局ろくに定着もしないままに棚ざらしにされている現状を省みれば、これまた容易に想像がつくことだ。外がまだ真昼の明るさのうちに退勤することに落ち着かなさを感じるだろう多くの律儀な人たちは、いつものように外が暗くなるまでもくもくと仕事を続けるということになるだろう。
それにしても、これまでさまざまな事情を背景として、実現がなされなかったいくつもの法案が、安倍政権になってから一気に成立するということが繰りかえされてきたので、今回の「夏時間」の問題についても、同様の結果になるのかもしれない。そもそも猛暑が予想される真夏の東京でのオリンピックという無茶な条件下での開催で、国家の威信をかけての競技会だけに絶対失敗ができないという切羽詰まった状況と口実の下、ごくごくすんなりと「夏時間」移行は実現するかもしれない。

「夏時間」終了後、ゾンビのごとく生気を失った日本人の大量出現などという悪夢が現前しないことをふと思う。


【18年8月18日】

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』について、引き続き考えている。ポストモダンというものの内容が、個人的にはひとつの絶対的価値(唯一絶対的な神の存在とか、普遍的な真理とか)の消失、それにともなう多種多様な価値の出現とその裏付けとしての事実の検証の乱立的な状況を指しているように思っている。とすると、フェイクニュースなどは、まさに様々な価値(事実としては虚偽かもしれないけれど、それを事実として信じたい人にとっては真実であるというややこしい価値のありようにおいて)とその裏付けとしての玉石とりまぜての事実の乱立状況がもたらした産物という点では、まさにポストモダン的な状況そのものではないか、とも思われてくる。マルクス・ガブリエルがポスト・モダン的状況を批判したと以前に書いたけれど、実は彼の考え方自体もポストモダン的思考の延長上にあるのかもしれないとも思われる。彼自身、様々な事実の混在的状況は否定していないからだ。ただ、そのあり様に関しては一つの見解を提唱しているけれど。
フェイクニュースにもどるけれど、ここで問題とされるのは虚偽も含めて様々な事実の存在それ自体を否定するのではなく、その状況の中であきらかに虚偽的な事実がそれを信じたい(あたかもひとつの宗教ないしは信仰のように)多数の人々によって、事実それ自体(というよりは様々な事実の相互関係の中で、より意味があると思われる事実同士の相互関係性に)におおきな歪みやひずみがもたらされるということ(ある特定の事実だけが正しいものとして、他を貶め拒否的に拒絶する状況をもたらす、そのことが事実関係それ自体をゆがめ、そのゆがみが社会と人々の価値観や意識それ自体のありように大きな影響をもたらす)にこそ大きな問題があるとする。ある意味では、それは状況をポストモダン的状況以前の状態へと歴史や時間を逆行させ、人々の対立やさらには「魔女狩り」的状況すら現出させてしまうことにもなりかねないということだ。
ひとつの事実はそれ単体で存在しているわけではなく、他の事実との関係性の中でその存在が保証され、その関係性の中でそれぞれの事実の持つ意味や価値が規定され、決定されることになる。とするならば、そのひとつひとつの事実に対して、他の事実との相互検証の手順を踏みつつ、それぞれの事実の持つ意味や価値が明らかにされる必要がある。もちろん、その過程の中で正当な意味や価値とフェイクとの切り分けがなされていくことにもなるのだろう。ただ、そのためには正確な事実の提示とその地道な検証作業が要求されることになる。われわれに今必要なのは、その提示と検証作業ということだ、とマルクス・ガブリエルは改めて提起をしているように個人的には思われる。おそらく、その地道な検証作業の過程の中で、フェイクニュースひとつとってみても、虚偽性があきらかとなるだけではなく、そのような偽りがこの社会に出現する必然性とその背後関係、いいかえるとこの社会のありようそのものまでがあぶりだされてくることになるのだろうと思われる。
……、などということを、「歩き」の最中にごちゃごちゃと考えたりしている。考えて、その過程や思いにどのような意味や価値があるのかは、個人的には正直わからない。


【18年8月16日】
お盆の送り火を焚き終わる。少々風があったけれど、炎が燃えている間はこころなしか風が弱まったような気がする。甥は一足先に帰ったので、迎え火の時より一人少ない送り火となった。

東京からの知人を迎え、14日夕刻から少人数での飲み会。二次会は、少し離れた飲み屋街の中の小さなバーに連れて行ってもらう。マスター一人だけのお店だったが、カクテルを含め、大変お酒がおいしい店だった。地元の知人の一人は、そのせいか少々飲みすぎたらしく、店を出た時にはふらふら状態であった。別の知人の一人が付き添って自宅まで無事に送り届けてくれたらしい。こちらは、すでに終電もない時間帯だったけれど、地元の知人の旦那さんに迎えにきていただき、わざわざ自宅まで車で送り届けてもらった。大変楽しい一夜であった。
今日は、昼過ぎまでちゃんとした雨が降った。何日ぶりの降雨だろうか、と思うぐらい、猛暑日の連続の中での久しぶりの雨だった。そのせいで、さほど気温もあがらず、夜に入ると涼しい風が吹いてくる。この雨を境に、季節が少し進むらしい。

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』を読了。難しかったけれど、翻訳者の解説なども参考にして少しだけ了解する部分はあった。まだまだまるでまとまりきれないけれども……。ただ、そもそもマルクス・ガブリエルに興味を感じたのは、BSテレビの特集番組を通じて、彼の考え方が従来のものの捉え方に対するおそらく鋭い批判的言辞を含むものであるらしく、その批判の対象が現代の社会や人のありようにまで向かうところにあることに強い関心を引かれたというのは大きかった。実際、現在問題になっているフェイクニュースなども、彼が問題視するポスト・モダン的状況の残滓のひとつとして、悪影響をそのまま現在にまでもたらしているらしいことなどはなるほどと思われたりもした。虚偽やねつ造を含めて様々な「事実」らしきことがらが流通し、しかもその中である特定の「事実」めいたものが多くの支持者の賛同によって「本当」らしきもの、さらには「唯一絶対的な真実」めいたものにまで構築されていき、それが現実社会に大きな影響力すら持ってしまうという状況に対する、強力な警鐘のひとつとしてマルクス・ガブリエルの言葉は大きな意味を持つと思われたことだ。


【18年8月13日】

日中、最高気温は35度。暑い。少し遅い時間に墓参り。二か所まわるので、結構時間もかかる。それにしても、盆花の高いこと。またシブキも同様にびっくりするほど高い。毎年の掻き入れ時の時季の値段とはいえ、高すぎないか、と正直思う。今日は一人だったので、花立、注水、シブキ、盆花、お水やり(というのだろうか)、線香と手順を決めて、すみやかに墓参を行う。夕方とはいえ、ひどく暑い。汗だくだくになって墓参りを終える。今日も、大山とその周辺の山には、巨大な入道雲が立ち上がっていた。あの雲の下では、相当の降水があることだろうと思う。入道雲、と呼ぶより、雄大積雲といった方が、より実感が反映されそうだ。帰りは、西に向かって帰路を取る。その結果もろ西日を正面に見ることになる。サングラスをして運転をしているのだが、進行方向が光の中にかすんで見えなくなるくらいに西日がまぶしい。運転するのが危険なほどのまぶしさで、スピードを抑え抑えしつつ運転する。こんな強烈な西日と正対するのは近来まれなことだ。ちょっと異常な感じすらする。

夜、8時過ぎ。実家の方で、迎え火を焚く。家族に犬一匹で火を囲む。苧殻がしっかり乾燥しているせいか、思いのほか高く炎が上がる。空は薄雲が広がるなかで、ぽつりぽつりと星が輝いて見える。南の空には火星が赤く輝いて見える。

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』をようやく半分くらいまで読み進む。京都滞在中に読もうと思いつつ、1ページも読み進まないまま終わってしまったので、数日後に返却日を控えながら、ともかく読む。わかりやすく具体例を多用してくれているのだろうけれど、その具体例の意味するところがよくわからなくて困る。世界は存在しない、というよりは、そのことを強力な前提というのか仮説として、その上に自論を展開しようとしているのだろうか、などと思ってしまう。おそらく間違っているのだろうけれど……。難しい。はたして、読み終えることができるのだろうか。


【18年8月12日】

ペルセウス座流星群の観測好適日は、今夜から明日未明だった。何を思い違いしていたのだろうか。と同時に、帰宅してシーイング環境の良い場所で流星観測ができるのがありがたい。ちょっと、雲が多いのが気がかりではあるけれど。

明日からお盆。今日は日盛りの中、墓掃除に出かける。2か所墓所を回るのだが、1か所はなかなかすごい状態で、明日と二日に分けて草むしりをすることにした。地べたにしゃがんで草むしりをしていると、背中が日差しを受けて暑いを通り越して、痛いほどの状態になる。とはいえ、海からの風が時折吹いてきて、その瞬間は暑さが少し緩和されたような思いになる。大山方面には時間の経過とともに、巨大な積乱雲が育ちつつある。午後には、山間部で豪雨が降ったとのニュースを後程聞く。

総裁選。安倍晋三の圧勝ということをしきりにマスコミは伝える。まあ、そうなるのだろう。そしてまた、愚劣な総理を中心としてさらに3年間の劣悪な政治が継続するということになるのだろう。自民党員が総理総裁を決定するということで、それ以外の一般国民は全くの蚊帳の外状態である。とはいえ、いまの腐ったミカン状態の自民党の中で、正統保守の姿勢を保つ石破とその支持者たちが、かろうじて自民党の良心的部分を担っているようだ。それが、極端な少数者であるというところに、現在の自民党の惨憺たる劣化状態が象徴されてあるようだ。総裁選後、反安倍の立場を取った議員たちに対してどのような報復や粛清が行われるのか、いかにも巧妙に冷酷に、反対者を排除していくのか、そんなこともマスコミは伝えないだろう。たとえどのような状況になろうとも、石破とその支持者には党内で踏ん張ってほしいと願う。

久しぶりに本屋に行って、雑誌の棚をみていたら、いくつもの雑誌が軌を一にしたように煽情的なタイトルを掲げつつ「A新聞」の批判的記事を掲載していた。もっとも反安倍の姿勢を明らかにする「A新聞」に対して、安倍晋三自身露骨に批判を展開してはいたのだが、おそらくそれと同一歩調でいくつもの保守系雑誌が、「A新聞」に対する圧力をかけてきているのが、容易に見て取れた。別に「A新聞」の購読者というわけではないが、おそらく権力の意を受けて(あるいは忖度して)、ジャーナリズムが露骨に他のジャーナリズムを潰しにかかる、そんな状況が目のあたり展開されているようで、かなり気味が悪かった。