句集紹介・2
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茨木和生『倭(やまと)』 ー豊かな体験と強靱な知性による平成の風土俳句ー

  句集『倭』の「あとがき」において茨木氏は、「せめて次の世代に、ものとしての存在がなくなりつつある季語を残すために、私はそんな句を詠んでおきたいと思っている」と、自己の句業ならびにその中でのこの句集『倭』の意味について語っておられる。句集の舞台は深吉野であり、熊野であり、土佐であり、時には丹後、奥琵琶湖であったりする。いづれの土地も「周辺」としての場所であり、それゆえに、時代の激流の中で生活すべてが等質化してゆく現代においても、日々の生活の中に姿を変えつつもその土地その風土に根ざした生活文化がいまだ生きているともいえよう。茨木氏は、その生活文化の中でも特に「狩猟的生活」「縄文的生活」の部分に自ら深く関わろうとしつつ、それらに対する愛情と哀惜(それは氏自身の幼少年期に対する愛着にも繋がる)の思いの中で、平成という今現在におけるそれら生活文化を、季語というものを中心に据えて、俳句として形象化(それは同時に継承化ともいえるか)定着化しようとしている。しかし、氏の俳句は単なる記録俳句(こんな言葉があるだろうか?)ルポルタージュ俳句(こんな言葉もありはしないだろうけれど)などではない。氏の俳句は、その土地とそこに生きる人々に積極的に関わりその生活を再体験する氏の精力的な行動力(氏自身が、現在の自身について体験の蓄積の重要さを語っておられた事がある)と、その行動によって培われた博覧強記とも言える豊かな知識と知恵の蓄積、そしてなによりも詩人としてののびやかで繊細な感受性によって受け止められ受肉化され詠われた風土の俳句(うた)といえよう。
 

「倭」16句
のめといふ魚のぬめりも春めけり 夜桜を見て来し裾の汚れかな
麦踏の手をどうするか見てゐたる 田鰻を掴み出したる蓮根掘
懸想文売の足音なかりけり 隧道の上に一字(ひとあざ)春祭
熊撃のはにかんでゐる春炉かな 鷹の子が鳴くよ話さず歩かうよ
濁流の沖へ拡がる端午かな 虫鳴くや柩のお顔横向きに
沖荒れの見ゆる二階に試筆かな 気に入りてゐし丁字屋の隙間風
諸子(もろこ)焼く煙を立つて払ひけり 春愁や踏みし缶より水が出て
ほっこりを食ぶるほがほが言ふ人と 冬の芹抜きたる濁り流れ行く